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来週(2月16日~)から平常更新に戻ります。済みません。 本誌執筆者 #
by 3-shikou
| 2009-02-11 16:59
御既承の通り、仕事と家庭、それに肉親の原状回復支援の3正面作戦を展開している現状を鑑み、また一部読者から休載中のブログ最下位の声も頂きました点も踏まえ、各ブログの発行曜日を下記の如くと致し度、読者各位に於かれましては格段のご高配を賜れば幸甚でございます。 なお、翌日未明にずれ込む場合もありますし、必要とあれば随時更新致しますので、併せてご了解の程、お願い申し上げます。 中身の薄いものを毎日更新するよりも、内容の濃密さを追求する方を選択した結果とご理解頂ければ幸いです。 「おん爺U」の抱腹絶倒 株式レーティング」:毎週月曜日、水曜日、金曜日の週三回 「現代中国に関する考察」:毎週火曜日、木曜日、土曜日の週三回 「現代の超克」:毎月第一及び第三日曜日 真説「春秋」「論語」及び「孔子」:毎月第二及び第四日曜日 上記適用開始時期は、2月です。 以上、宜しくご理解の程、お願いします。 各誌執筆者 #
by 3-shikou
| 2009-01-26 01:35
季武子が「中国版象徴君主制」が閃いたのは何時のことか不明ですが、その原型は季武子の若い頃、もっと言えば父季文子の代から存在していたのではないかと思われます。 紀元前六世紀は、大国と大国のぶつかり合いの連続の世紀でした。 大国は、中央分権を何らかの形で達成し得た国です。 だからこそ他国を圧倒して大国になれた訳ですが、遅れを取った中小国も、中央集権の必要性は身に沁みていたことでしょう。 特に、勢力の弱い国は大国間の持ち駒みたいな扱いを受ける場合があります。 それが嫌なら、中央集権化するしかありません。 ただ、その教育係に孔子を起用するとは、季武子の選択肢にはなかったですし、暫くは躊躇したはずです。 そのため、孔子のがり勉が始まったのは、15歳と遅いのです。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-07-01 08:15
季孫子、特に季武子が頭に描いていた政治体制の新構想は、おおよそ次の様なものであったと考えられます。 「中央集権を推進、但し季孫子が権力を掌握」 「魯公は名目上の首長に留め、儀礼的な国事行為に限る」 「中央集権達成のために、各地を私領化するとともに、有力貴族をずべて滅ぼす」 「魯公が政治構想を拒否した場合に備え、代わりの者、つまり公太子を設置する」 最低でも、これだけの措置が必要になりますが、その前提として、季孫子が政治を壟断する根拠が必要になります。 すなわち、それだけの血筋と名声、業績を上げている一族であることを証明する必要が出てきます。 つまりは歴史の改変、このために白羽の矢が立ったのが孔子でした。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-06-26 21:20
藤原不比等は幼名が史(ふひと)であるように、国家資料を保管する部屋の住人でした。 中臣氏が没落して以降、国家直属の内臣として育ったのでしょう。 幸い、そこには論語や春秋があったと思われます。 と言いますか、不比等は確実に春秋は読破しています、繰り返し繰り返し。 そして、季孫子(=季武子)の政治目標を了解するに至りました。 ところで、前回の末尾に申し上げた「実質君主」とは何でしょうか。 実質君主がいるならば、形式君主が要ります。 こんな質問は簡単ですね、日本における形式君主って誰ですか。 平安中期以降の天皇です。 つまり、季武子は「象徴天皇制度」の原型を考え付いた最初の人物で、それを最初に理解できたのが藤原不比等です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-06-19 00:58
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