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読者は子路の生地をご存知であろうか。 「卞」という。 魯の都、曲阜の側を流れる洙水の上流約50キロの所にある都市。 季孫子は、この都市を前544年に占領し、支配下においている。 参考までに、季孫子が臧氏の拠点、「陬」及び「防」を奪取したのが同550年。この事件が孔子の運命に大きな影響を与えたのは、姉妹編にて述べた通りである。 つまり、季孫子は数年にして、勢力を急拡大したことになる。 子路の誕生は紀元前542年。従って、子路は季孫子支配下の卞で生を受けたことになる。 ここで問題になるのは、子路こと仲由の属する一族が、季孫子の内臣であったか(すなわち進駐軍として卞に派遣されたのか)、それまでは卞の市民権を持つ一員であったが、事件後被支配階級に落とされた集団の一人であったかということである。 筆者は前者の説を採る。 なぜなら、内臣がご主人の信頼を得るのは、二代、三代の時を必要とする。 奴隷に落とした当の本人では、何時寝首を掻かれるか分からない。そんな人物に学問を付けさせたり、ましてや内宰にする訳がない。 という訳で、仲由(子路)は、季孫子の家臣団の一人と考える。しかも古参の。 次回、仲由(または単に由)、季路、子路の「無礼度」を考える。 (続く)
by 3-shikou
| 2007-12-27 22:52
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