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こうして、物心ついた頃の孔子は、武官としての教育を受けることになりました。 ですから、論語の八佾編に、 「子曰、君子無所爭、必也射乎、揖譲而升下、而飮、其爭也君子、」 (子の曰わく、君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ。其の争いは君子なり。) とあるのは、故無しとしないのです。 武官として育てたのならば、弓矢は必須科目です。 しかし、遅くとも15歳までに、文字を学び、政府公文書を片っ端から暗記することになります。 その様子を描いたのが同じく八佾編の、 子入大廟、毎事問、或曰、孰謂陬人之知禮乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是禮也、 (子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひとの曰わく、孰(たれ)か陬人の子(こ)を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問う。子これを聞きて曰わく、是れ礼なり。) です。 解釈は姉妹編「論語編」に譲りますが、孔子の勉強量は半端なものでは有りませんでした。 (続く) 追記 「春秋の風 論語の心 孔子の生」の「春秋編」、「論語編」、「孔子・弟子・家族編」を、宮崎市定先生に捧げます。
by 3-shikou
| 2008-01-08 23:06
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