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「放伐」は不可、「禅譲」も駄目。 そもそも禅譲は、異姓間の権力の譲与ですから、この場合のような同姓、しかも近親間では禅譲と定義すら出来ないでしょう。 精々が「謀反」です。 とすると、第三の道しか残されていないのです。 この時代、魯で「馬鹿殿」が相次いで即位したことは、既に述べました。 当主の季武子を筆頭に、季孫子一族は散々煮え湯を飲まされます。 と言って、馬鹿であろうが何であろうが、「殿」を代えることは出来ない。 とすると、残された選択肢は一つ、「実質君主」です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-06-16 22:53
季武子が目指した政治体制の変革には、3通りの道が考えられます。 まずは「放伐」。 この場合は魯公とその縁者を根絶やしにして、己が公位に就くことになりますが、この種の「荒業」は、大義名分がないと出来ないうえ、他国の干渉を招きますから、得策ではありません。 次に「禅譲」ですが、血統の重んじられた当時、「卿」の身分の者が「公」に上がるのは、まず有り得ないです。 つまり、「公」から「卿」への禅譲も現実として無理があります。 同じ立場の家柄の人物も黙っていませんでしょう。 とすると、第三の道を選ばざるを得ません。 後世、それを理解したのは藤原不比等ただ一人です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-06-05 19:54
春秋以前においては、他国でも魯と同様、宮中図書館を管理する大夫(貴族、おそらく周の末裔)が居て、その下で世襲の内臣(図書館員)が、経(=本文)を保管しつつ、その解説部分の伝(=口伝)を代々伝えていたと思われます。 ですから各国にも(少なくとも「中原」各国には)歴史資料があったと推測されます。 では、季孫子は何を企んでいたのでしょうか。 「歴史書」の作成です。 なぜ「中国初」の歴史書が必要になったのでしょうか。 「正当性と正統性」を新たに確立する必要に迫られたからです。 常々思うのですが、その同時代人又はそれ以前において、中国では孔子、日本では藤原不比等を凌ぐ、或いは伍することが出来る「知識人、教養人、歴史家」は存在したでしょうか。 藤原不比等に至っては幼名が史(史官)、すなわちもろに図書館付き奴隷(内臣)ですよ。 つまり、両人とも若かりし頃に、国家資料を含めた歴史的出来事を、その解説部分も含めて全て頭に叩き込んでいることになります。 季孫子の政治的到達点、これが分からない限り、歴史の理解は一歩も前に進みません。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-05-27 14:37
孔子が何故、30歳になって「教壇に立つ」、つまり季孫子(当主は季武子)の「私的官僚団育成係」を務めることになるまでの15年間、宮中の国庫に通い続けて伝も含めた国家機密を頭に叩き込んだ理由のひとつに、「季孫子の子弟の家庭教師」であったことも挙げられます。 しかし、もっと大きな理由があります。 15年と言う歳月は、全ての国家文書(解説部分の伝を含む)を暗記するに足る時間です。 これだけの知識人は、魯の図書館は愚か、当時の中国全土にも居ません。 その「歩く国家資料」を、季武子は手に入れたのです。 ところで、春秋は原則として、魯の歴史書です。 この時代、宋や鄭、或いはご本家の周に、それに相当するものは無かったのでしょうか。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-05-26 11:27
季孫子及びその後継者の時代を一言で表現すれば、「艱難辛苦」です。 まず、襄公から数代にわたり、馬鹿殿が輩出された時期でした。 一方で、楚に代表される南方の大国の台頭に対処するため、中央集権を進める必要がありました。 ですが、馬鹿殿では中央集権は叶わぬ夢です。 しかも、国内では有力者が割拠しているため、中央の威光が隅々にまで届きませんし、事と次第によれば、他国の影響力が浸透しているおそれすらあります。 とすれば、己の手で中央集権を進めるしかありません。 これは、既得権益の破壊であり、新秩序の確立でもあります。 そこで、孔子の本当の役割が明らかになります。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 3-shikou
| 2008-05-25 15:06
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